マダム H
「フランス語はほんの少し。英語は全くできない」ドアの前で確認した患者さん情報です。
ああ!じゃあフランス語で挨拶しなくちゃ、と思いました。
ベッドの側には張り紙がありました。「この患者さんは目が見えません」
あらら!じゃ、どうすればいいのかしら?
私がボランティアを始めて一ヶ月くらい経っていました。英語を聞き取る方はゆっくり進歩していました。でも、この患者さんにはそれも役に立ちません。呆然としました。頭の中はくるくる回っています。
前のミーティングの時、彼女のことが話題になりました。先輩ボランティアが、最初は、挨拶してから優しく触れたのよ、言っていたのを思い出しました。
それを真似ることにしました。
「ボンジュール、マダム」と言って、手にそうっと触れました。
彼女は顔をこちらに向け、まるで私の目をまっすぐ見つめるかのようでした。私は、名前を告げ、日本人です、と言った後、ベッドの側の椅子に腰掛けました。
悲しいかな、私のフランス語は底をつき、続けることができません。
でも彼女は私の手を離しませんし、私も挨拶だけで帰れるわけもありません。
椅子をベッドの側に引きずって、空いている方の手を彼女の頬に伸ばします。肌はスベスベしてあたたかでした。柔らかな髪でした。
彼女は私の手をもったまま、ちょっぴり微笑みました。
ボランティアたちは彼女を、ファーストネームではなく、マダムH(仮名)と尊敬の念を込めて呼んでいました。八十四歳のアルマニアから移民した、とても静かな患者さんでした。
マダム H と私の関係はこんなふうに始まりました。毎週私たちは互いの目を見つめ合いました。私は彼女の手を取り、顔や髪を撫でました。ほとんど黙ったまま、手でお話ししました。時には私が日本の童謡を歌うこともありました。
こうして、約五ヶ月経ちました。
ある日のこと、帰ろうとする私の手を、彼女はぐいっと引っ張って言いました。「聞いてちょうだい!」 私は腰掛け直して彼女の目を見つめました。
母国語で彼女は話し始めました。最初は小さな声でしたが、興奮するにつれて声が大きくなっていきました。一言も分かりませんが、私はうっとりと耳を傾けます。
語りが佳境に入ると、彼女の顔は輝き、表情はどんどん生き生きしていきました。きっと、とても楽しい思い出を話してくれているんだわ、と思いました。
話が最高潮に達したとき、声は昂り、ひまわりの花のような笑顔が次々と溢れました。
そして、「ホホホッ!ホー!ホー!ホホ!」という笑い声。
彼女の興奮が伝わります。
ひとしきり語り終えると、彼女は再び私の目を見つめ、手を離して言いました。「Au revoir ! (さよなら)」
私は立ち上がって答えます。「さよなら、またね」
胸にあたたかなものがあふれました。マダム H は彼女の人生の一部を、喜びのときを、私に分けてくれたのです。
言葉をこえて。
二つの魂が共鳴していました。