私には名前がありません。
生まれた時に母がつけてくれた名前が、当時の漢字制限のため、役場で受け付けてもらえなかったからです。
見ず知らずの役場の人が提案した漢字で、とりあえず私の名前が届けられました。
制限がなかったら、尚子になるはずでしたが、仕方ないので直子にしておこう、ということになったのです。
小学三年生になり、自分の名前を漢字で書くようになった頃、父が一枚の和紙を持ってきて、無愛想に「これがお前だ」と言いました。
見るとそこには、父直筆の「命名 池田尚子」という文字がありました。
この人だあれ? 父さんが名付けたというけど… 私だっていうけど… ???
しばらくしてから、家族で時折話題にのぼる、漢字制限と暫定的な名前の逸話と結びつき、尚子とは私のことらしいと気づきました。
以来、「私って誰?本当は誰?」という問いが頭から離れなくなりました。
父は日常的に私を折檻しました。殴ったり、真っ暗な部屋に閉じ込めたり。妹にはなぜか手をあげることがありません。
私は折檻されると自然に、自分が名付けた子供じゃないから打つんだ、と感じてきました。
ご機嫌が悪かったり、私が何かヘマをしでかすと、「直子!」という声がして、ビンタがきます。
だから私はできるだけ身を隠し、良い子になり、打たれる時は歯を食いしばって、できるだけ痛みを感じないようにしてきました。
私が生まれた時、父は五十八歳に近づいていて、亡くなった先妻との間にできた、八人の子供達を育て上げた後でした。
母は初婚で、自分の父親ほど歳の離れた、時折卒中の発作で倒れる男性と結婚し、私が生まれました。
私にとって父は、恐ろしい存在で、殆ど口もきけません。卒中を起こすと、このまま死んでしまうのでは、と心配になり、恐怖に陥ります。
こんな中で私は大人になりました。
二十一歳の夏、父は生涯最大の発作に見舞われました。
なんとか命は取り留めたものの、右半身が完全に麻痺し、言葉も失いました。
九年間の寝たきり状態の間、母が、昔とった杵柄を生かし、二十四時間つききりの在宅看護を続けることになります。
大学院に進学した私は、家を離れ、週末に帰宅して父の介護を手伝うという生活を始めました。
父は、私を脅かす存在ではなくなりました。
父の口からは、「直子!」という怒鳴り声は出ず、右腕は麻痺して殴ることはできません。
それどころか、私が、畳の上で寝ている父を見下ろし、身体を拭き清め、下の世話をし、しようと思えば、蹴っ飛ばすことさえできるのです。
生まれて初めて、身の安全を感じました。
こうして九年間、私は、父をつぶさに観察しました。
父のことをもう少し知りたいと思いました。
でも、それまで父とは殆ど言葉を交わすことはありませんでしたし、寝たきりになった父の口から出るのは、母を呼ぶ「お母さん」と、首を横に振る「知らない」、あっちへ行けの「もういいよ」の三言だけになってしまったので、会話にはなりません。
私にできるのは、ただ、次第に木切れのように枯れていく父の様子をじっと観察することと、それまでの数少ない会話の中から、何とか糸口を見つけて、探ることだけでした。
出てきた恐ろしい父親の陰に潜んでいたのは、親の愛を切望し、苦しみを理解してほしいと願う、幼い少年でした。
叶うことのない願いをもち、魂の疼きに身をこがし、思うに任せない自分に苛ついてしまう、私と全く同じ、弱い一人の人間でした。
父は、名づけるのを拒否したのではなく、できなかったのです。
それと前後して、母のことも理解できるようになりました。母が私を尚子と名付けたのは、四百五十年にわたって沖縄を治めた尚家に因んででした。沖縄の魂を継いでほしいと願ってのことだったのです。
直子という名前は、大いなるもの(神)が、自分の元へ真っ直ぐに来るようにという願いを込めて、両親ではなく、知らない人を通して神自身がつけたのだと思うに至りました。
この世に存在することを拒否されていると信じるきっかけとなった父の直筆の命名書は、自分を知り、本当の自分に出会う旅を提供してくれました。
この頃には、二度も自殺寸前まで行った自己嫌悪は姿を消し、二つの名前と、持ち主である自分との折り合いがつけられるようになっていました。
名前の秘密を探る旅は、終わりを迎えたかのようでした。
ところが、私は再び名前を失いました。
五十歳で突然カナダのケベック州に移住したのです。
私は、直子でも尚子でもなくなり、名前は意味を持つものから、NAOKO という、単なる音になりました。
しかも、日本で聞き慣れた、第一音にアクセントが置かれるNA-OKOではなく、英語系の人からは、後から二つ目の母音にアクセントを置くNA-O-KO と、フランス語系の人からは最後にアクセントを置くNAO-KOと呼ばれます。
自分が空中分解したようでした。
「私は誰?」のやり直しです。
最初は、異国で一日一日をなんとか切り抜けるのに必死でした。
言葉の壁、文化の壁は、高すぎるように見え、中で不格好にもがきながら、手探りで進むしかありません。
生活に追われる長い年月が経ちました。
名前の探求に引き戻してくれたのは、母と、殆ど使うことがなかった尚子でした。
母がアルツハイマー性痴呆になったのです。
それで、毎年彼女の誕生日の頃に三週間ほど帰国して、妹の元で、母の介護を手伝うようになりました。
十二年ほど前、秋になると帰国する私に、旅行に行っていると思ったケベック女性が、自分を一緒に日本に連れて行ってくれないか、そして沖縄に行きたいのだけど、と言ってきました。
そして二人で母の実家を訪れることになりました。
実家の祭壇の前で手を合わせた時、初めて母と、母の先祖、沖縄そのもの、尚家との繋がりが深い所から上ってきて、本当に尚子を統合したのを感じました。
その後も日々から学びながら、ケベックに住み、二〇二五年十一月に、自分が光である体験をしました。
不器用な歩みを綴った『マクトゥーブ』の全ページが最初から最後まで、超高速で捲られ、無限から無限を瞬時に貫くレーザー光が私の身体を突き抜けました。
私は光そのものだったのです!
与えられた名前は意味を失い、同時に、深い意味をもちました。
直子も尚子も、音だけのNAOKOも、アクセントの違いも。
Webサイトをアップデートすることになって、この原稿を書こうと、金庫にしまってある父の命名書を出して見ました。
古ぼけた紙は、ずっと父の拒絶のシンボルでした。
でも先日見ると、それが、誕生した私への、この上ない、彼にしか与えられない最大のギフトに変わっていました。
その紙がなかったら、私は自分探しの旅に出かけることも、本当の自分を見出すこともなかったでしょうから。
父は、本当の自分を見出さないまま、他界しました。
私が見出した時、私を通して、父も(先祖達も)本来の姿に至ったと感じました。
父はそのチャンスを私にくれたのです。
感謝の涙が数筋静かに流れていました。
それだけではありませんでした。
三月の私の誕生日の朝、自分におめでとう!と言いました。
その途端、これまで誕生日を祝ったことがなかったことに気づきました。
父に存在することを拒絶されたため、自分の存在を祝福として受け止められなかったからでした。
七十七歳になって、生まれて初めて、私は自分の存在を祝福として胸に抱き、そのあたたかな安心の中に身を委ねることができました。
父からの贈り物です。
時間がかかりました。
でも、やっと、やっと戻ってきました。
ただいま!